BOB DOROUGH
ボブ・ドロー
2013 6.28 fri. - 6.29 sat.
マイルス・デイヴィスの名盤『ソーサラー』に参加。小粋なピアノ・プレイと語りかけるような歌声で幅広い音楽ファンを魅了するボブ・ドローが奇跡の初来日を果たす! ’56年に『デヴィル・メイ・ケア』でアルバム・デビューを飾り、’63年には作詞を担当した「カミン・ホーム・ベイビー」がグラミー賞2部門にノミネート。ロック・グループ“スパンキー・アンド・アワ・ギャング”のプロデュースを経て、’73年から’85年にかけてアメリカの国民的子供番組「スクールハウス・ロック」に携わり、名曲「スリー・イズ・ア・マジック・ナンバー」で一世を風靡した。モーズ・アリソン、ダイアナ・クラール、ジェイミー・カラム等、数多くの後進から敬愛を集めるボブ・ドロー。伝説の才人が、御年89歳にして遂にベールを脱ぐ。
ボブ・ドロー
2013 6.28 fri. - 6.29 sat.
6.28 fri.
[1st]Open5:30pm Start7:00pm [2nd]Open8:45pm Start9:30pm
6.29 sat.
[1st]Open3:45pm Start5:00pm [2nd]Open7:00pm Start8:00pm
Bob Dorough(p,vo) |
ボブ・ドロー(ピアノ、ヴォーカル) |
Steve Berger(g) |
スティーヴ・バーガー(ギター) |
Pat O'Leary(b) |
パット・オリアリー(ベース) |
まだ春の足音が遠かった3月19日、ニューヨークのブルーノートで独特の歌声で、根強い人気を博すボブ・ドローに会った。90才を目前にして初来日を果たすアメリカ・ジャズ界の生き証人は、ひょうひょうとしながら闊達に、音楽家であることにこだわり続けた半生を語った。
「“マイルスだ。俺にクリスマス・ソングを書いてくれ”って」 マイルス・デイヴィスに「ブルー・エクスマス」を依頼されたときのエピソードを、ボブ・ドローは声色を真似ながら、楽しそうに、上手に語った。1962年の出来事。それから半世紀(!)、人に請われるたびに人の好いボブはくり返し話して来たのだろうな、と思った。マイルスが彼の出世作にして最高傑作のひとつとされる『デヴィル・メイ・ケア』を気に入って、クリスマス・アルバムに参加する運びとなったのは、有名な話だ。
■ 研究を重ねて作り上げたヴォーカルスタイル
「ニューヨークでは近寄りがたい人だったから、ロスで共通の女友達のアパートでアルバムを通して聴いた、と知らされたときは驚いたね。コルトレーンたちが演奏していたクラブで紹介されて、いきなり“ボルチモア・オレオール”を歌えって」。それが「ブルー・エクスマス」につながり、もうひとつの共演曲「ナッシング・ライク・ユー」も同じ日にレコーディングした。 ふたりのつき合いは70年代を通して続いたと言う。
89才のボブ・ドローのキャリアをたどると、20世紀後半のアメリカの、めくるめくようなカルチャー史が浮かび上がる。 第二次世界大戦で徴兵されたものの、右耳の鼓膜が悪かったため軍のバンドに配属された。「作曲とアレンジをして自分で歌った。ピアノとサックスも演奏したから、いい練習になったね」。その後、コロンビア大で作曲を学びながら、ビーバップ全盛期のニューヨークを駆け抜けた。「ジャズ・シンガーらしい声ではないのは自覚していたから、とにかく練習した。言葉が伝わるのを大事だと思っていて、滑舌は徹底的に鍛えたね」。その歌い方は、トム・ウェイツらにまで影響を及ぼした。「50年代のビーバップ・ミュージシャンはみんなヒッピーだったよ。金はなくても、ポエトリーを聞きに行って、すばらしい絵を見て、インドや日本、中国、バリの音楽を聴いて…」。ザ・ファグズのポエトリー・リーディングと音楽を融合させる試みに力を貸し、そこからビートニクの巨匠、アレン・ギンズバーグのプロジェクトに招かれて、文学史にも足を踏み入れている。「マイルスも独特だったけれど、ギンズバーグも風変わりだったね」と笑う。
■ 音楽ディレクターと放浪の二重生活
伝説のボクサー、シュガー・レイ・ロビンソンがエンターテイナーに転向したときのバンドにも在籍した。「カウント・ベイシーのバスに乗って北米を回ったよ。南部では偏見がまだ根強く、すごくホットな演奏をしても、黒人の仲間は俺と同じホテルに泊まれないと言われたこともあった。南部出身として、恥ずかしかったよ」。ボブ自身は、ほかの苦労を味わった。ロックの時代になり、ジャズでは生計が立てづらくなったのだ。「作曲とアレンジができたからCMソングの仕事をしていたら、教育用の曲を作る依頼が来た」。それが、アメリカ人に広く親しまれた「スクール・ハウス・ロック」の始まりだ。九九やアメリカ史をアニメと音楽で表現、土曜日の午前中に放映されて大評判に。テレビの音楽ディレクターをしていた時代も、ベーシストのビル・タカスとヨーロッパに演奏旅行したのが、もっとも楽しい思い出だと言う。「ジプシーみたいに少しのギャラと寝るところをあてがってくれたら、どこでも行った。75年に西海岸から始めて、数年間は週末ヨーロッパで、それからロスでテレビ用の曲の作る二重生活をしていた」といい、「俺たちはHAMだった」と締めた。HAMは、クレイジーという意味のスラングだ。つまり、ボブ・ドローの生涯は、音楽狂そのものなのだ。
photo / Shino Yanagawa[cover & this page] interview & text / Minako Ikeshiro