[インタビュー|OFFSTAGE]ラリー・ハーロウにインタビュー
ファニアなくしてサルサはなし。
ファニアなくして僕の人生もなし
ニューヨークでは音楽のデジタル化が加速化。
大所帯のラテンバンドの活動が難しくなっている状況だという。
そんな変換期にもラリー・ハーロウはタフにサルサを続ける。
「どうだい、僕はプリティかい?」
ブルーノート東京公演の最終日、ラリー・ハーロウはフォトグラファーに満面の笑みを見せた。
「今日は日本公演のファイナル。間違いなくクレイジー・ナイトになるはずだよ」
1月に4日間8公演行われたラリー・ハーロウ's・ラテン・レジェンズ・オブ・ファニア featuring オレステス・ビラトー&ホルヘ・サンタナは総勢15名。バンドがそのままフェスティバルのような華やかさだ。なにしろ、オープニングでは、ドラムスとパーカションが4人もいるのだ。
「僕が住むニューヨークの音楽ビジネスは大変革期を迎えている。CDの時代が去り、若者はダウンロードで音楽を聴くようになった。ライヴ会場も縮小化し、バンドも少人数化している。バンドリーダーたちは複数の楽器を演奏できるミュージシャンを起用して、レコーディングしている。すると、ダビング中心になるので、音楽の会話が成立しない。そんな時代でも、僕のバンドは、こうして手練れのミュージシャンをしっかりと集めている。だから、毎晩生々しくエキサイティングな演奏になるんだよ」
音楽ビジネスが成立しづらくなっているため、ラリーはますます積極的に世界へ展開している。
「ヨーロッパの主要都市はもちろん、北欧、ロシア、アフリカへも行く。旅から旅の毎日だよ」
腕利きの集団なので、ラリーはキーボードを演奏しながらアイコンタクトだけで合図を送る。
「僕は子どもの頃から演奏をしていた。音楽ファミリーだったからね。当時はマンハッタンの西52丁目にいて、ショーの後、父親がよくベロベロに酔ったミュージシャンを泊めていた。僕が朝起きると、あのディジー・ガレスピーがキッチンで眠っていたこともあった。その中で僕が最も驚いたのがアート・テイタムだよ。ジャズピアニストの多くは、左でリズムを刻みながら、右手でインプロビゼーションをやる。しかし、彼は左右ともものすごいスピードで動くんだ。ショックだった。10代だった僕は自信を失って、1年間楽器に触れなくなったほどだ」
その後、ラリーはキューバに音楽留学するが、キューバ革命のために帰国を余儀なくされる。
「アメリカとキューバの国交がなくなったので、ニューヨークではジョニー・パチューコとともにつくったレーベル、ファニアがラテンミュージックと認識された。なにしろ、本物のキューバ音楽が入らなくなったからね。キューバ音楽に、ロックやジャズやソウルの要素が取り入れられたのが今のサルサミュージックだよ。ファニアなしにサルサはないし、ファニアなしに僕の人生もなかった」
そんなラリーがもっともリスペクトするミュージシャンは、アルセニオ・ロドリゲス。キューバ人だ。
「キューバの至宝だよ。アート・テイタムのラテン版だ。コンゴでロバに頭を蹴られて、彼も視力を失っている。彼は5,6人編成だったラテンミュージックを大編成にした。また、歌詞に二重の意味を持たせるのが特徴的だ。川の流れを歌いながら浮気中に妻が入ってくる内容だったり、雲を歌いながら女性の秘部の内容だったり。隠語満載なんだ」
Photo by Great The Kabukicho
ラリー・ハーロウ's・ラテン・レジェンズ・オブ・ファニア
featuring オレステス・ビラトー&ホルヘ・サンタナ
2015 1.13 tue. - 1.16 fri.
- LARRY HARLOW(ラリー・ハーロウ)
- 1939年ニューヨーク、ブルックリン生まれ。スパニッシュ・ハーレムの高校時代にラテン音楽に魅了されキューバに留学。59年、革命の際に帰国し、自己の楽団オーケストラ・ハーロウを結成。設立されたばかりのサルサの名門レーベル、ファニア・レコードから契約第1号アーティストとしてデビュー。
photography = Hiroyuki Matsukage
text = Kazunori Kodate
interpretation = Kazumi Someya