[インタビュー|OFFSTAGE]ブレナ・ウィテカー
歌に命を吹き込む気持ちでステージに立ちます。
3月に華やかなステージを披露したブレナ・ウィテカー。
シンガーとしてのルーツは、音楽に包まれたカンザスシティ。
エモーショナルなマインドはLAで育まれた。
「ブルーノート東京のお客さんたちはマナーがよくて、音楽を一所懸命聴いてくれる。アメリカの会場とは大違いです。アメリカのクラブでは、私が歌っている時も飲食や会話は続けているんですよ」
そう言って、ブレナ・ウィテカーは表情をほころばせた。3月に3日間6公演の初日、彼女は光沢のある黒いドレスに深紅の帯を巻き、華やかなショウを行った。セットリストは、グラミー15回受賞のプロデューサー、デヴィッド・フォスターが手掛けたデビュー作『ブレナ・ウィテカー』の曲が中心。オープニングも「ブラック・アンド・ゴールド」「ミスティ・ブルー」。アルバムと同じ曲でスタートした。
「デビュー作は2年かけて完成させました。私自身、パーフェクトなアルバムだと自負しています。完璧主義者のデヴィッドの"何があっても前へ進め!"という言葉に励まされて歌いました」
初めての日本で、ブレナは圧倒的な声量で歌い上げ、特にバラードでは情緒的に語りかけた。
「レコーディングで一度完成した曲は、ライヴを重ねることで、命を吹き込んでいます。それぞれの曲には、それぞれの物語がある。私はその物語の主人公になった自分をイメージします。すると、ステージでは、ほんとうに恋を失ったように悲しくなり、ほんとうに幸せな気持ちに包まれもします。そして、不思議なことに、同じ曲を歌っているのに、街や、会場や、お客さんによって、毎夜毎夜まったく違う感情が生まれる。そんな自分を新鮮に感じています。私の歌を聴いて、お客さんたちも、喜びや悲しみを共有してくれたら素敵ですね」
ブレナは現在30代半ば。デビューするまで、シンガーとして長い道のりを経験してきた。
「私は11歳からシアターで歌っています。生まれ育ったのは米ミズーリ州カンザスシティ。1930年代にトム・ペンダーガストというフィクサーによって事実上禁酒法の規制がなかった街なので、ナイトクラブが繁栄して、そこには必ず音楽がありました。そういう環境だから、幼いころから両親にブルースやジャズのライヴに連れていかれました。印象的だったのは16歳の時に観たベン・フォールズ・ファイヴ。あの時の感激は今も鮮明に憶えています」
ジャズを歌い始めたのは20歳の頃。そして、20代後半からロサンゼルスへ移り住んだ。
「ハリウッドのクラブやホテルで歌いました。ハリウッドというと華やかなイメージを持たれるかもせん。でも、陰もあります。成功する人よりもはるかに多くの夢破れる人がいる街です。その光と陰を見ることで、シンガーとしての感情が育ってきたように思います。誰かが選ばれれば、誰かが去っていく街で、人を蹴落とすのではなく、音楽仲間と共存し、助け合う大切さを知ったからこそ、長く、あきらめることなく歌い続けられたのだと思います。デビューが決まったのは、Wホテルに出演していた時期。毎週末レギュラーで歌っていた私をデヴィッドが見出してくれた。彼は私の人生の師です」
Photo by Takuo Sato
- Brenna Whitaker(ブレナ・ウィテカー)
- 米ミズーリ州カンザスシティ出身。11歳から活動を始め、20代にはジャズ・バンドを結成。ロサンゼルスへ移住し、ハリウッドのホテルラウンジのレギュラー・バンドに抜擢される。2015年、デイヴィッド・フォスターが手掛けた『ブレナ・ウィテカー』でアルバム・デビュー。
photography = Hiroyuki Matsukage
interview & text = Kazunori Kodate
interpretation = Mutsumi Mae